HIDEKI'S 連載 COLUMN SI住宅 NEW

(書き下ろし連載にあたって)
 私は、建設省建築研究所に在籍時、スケルトン定借(つくば方式)の開発(1992〜1998)に続いて、SI住宅の普及をはかるプロジェクトに携わった(1997〜2001)。この連載では、私自身の裏面史を交えつつ「SI住宅」の真実をお伝えしたいと思う。


連載7 SI方式の裏面史6−坂出人工土地の栄光と挫折


 吉阪隆正が紹介した人工土地は、1960年代に入ると若手建築家に影響を与える。さらに建設省を巻き込んで、坂出人工土地の実現に至る。その栄光と挫折の歴史を建築家・大高正人氏を通して描いてみよう。

SI住宅の原点のひとつはコルビュジエ

 なぜ大高氏なのか。第一の理由は、人工土地構想の中心人物であり、日本のSI住宅の先駆者だからだ。関連作品に、晴海高層アパート(1958)、広島基町高層アパート(1972〜1978)、そして、香川県にある坂出人工土地(1968〜1986)がある。これらは、建築は「変わる部分」と「変わらない部分」に分けることで新陳代謝するという思想を見事に表現したものであった。

 そして、第二の理由は、大高氏に幸いにもインタビューする機会を得たからだ。
 今でも氏の言葉はよく覚えている。「我々の世代は、もうコルビジエの書いたもの、言ったものが金科玉条になりまして無意識のうちに出て来ちゃうんですね」(住宅・1992年3月号)。ちなみに、大高氏が師事した前川國男は、吉阪隆正と同じくコルビュジエの事務所に在籍した。大高氏はコルビュジエの孫弟子ということになる。

 大高氏の話は、日本のSI住宅の原点の一つは、コルビュジエにあるということを私に確信させるものであった。

人工土地の実現に取り組んだ大高正人

 まず大高氏の解説文を紹介しよう。「人工土地という言葉を最初に使ったのは、恐らくル・コルビュジエが元祖だと思う。...しかし、コルビュジエの言う土地は、本質的には「建築の床」ではなかったかと思う。..土地には所有権があり、..建築は老朽しても土地は老朽しない。..大地のように強靱なコンクリートは、..本来の土地として使えるのではないか。」(大高正人・槙文彦。建築1961.9月号)

 大高氏らは、強靱なコンクリートの床を半永久的な土地とみなして建設することで、新しい都市の立体的な骨格になると考えたのである(図)。しかも、すでに土地の所有権に言及していることに驚く。


 大高正人・槙文彦による人工土地のイメージ(建築1964.9より)

中銀カプセルタワービルで話題となったメタボリズム運動

 ここで、1960年代に花開いたメタボリズム運動に触れておこう。メタボリズムは、肥満のメタボと同じ語源。新陳代謝するという意味だ。建築界では、時代変化に応じて「新陳代謝」するための都市と建築のあり方を求めた運動をさす。
 その代表作品として、黒川紀章が設計した中銀カプセルタワービル(1972年)がある。最近、建替えをめぐって話題となったので記憶されている方もいらっしゃるだろう。カプセルタワーの骨格をなすコア部分は、スケルトンと呼ぶにふさわしい。カプセルを交換しつつ新陳代謝する建築を、いわば究極のデザインとして具現化したものであった。

 実は、メタボリズム運動は有名なわりに、その歴史的な評価は定かではない。若手建築家による前衛芸術という位置づけもあれば、建築家による都市への提案という位置づけもある。さらに、提案にとどまるものが多くアンビルド(建たない建築)という解釈もある。

 しかし、SI住宅の系譜からすれば、その位置づけは明快だ。それは、コルビュジエの影響を受けつつ、立体的な土地をつくり、そこに新陳代謝する二次構造物をつくるという明快な目標をもつ運動であり、それは、「変わる部分」と「変わらない部分」の分離をテーマとする点で、スケルトン・インフィル方式の思想的原点の一つなのである。

再び大高氏−晴海から広島基町へ

 大高氏は、メタボリズム運動のリーダー的存在。前川國男事務所に在籍したときに、SI住宅の原点となる建築を計画した。それが、住宅公団の晴海高層アパート(1958)だ。
 メガストラクチュア(主体構造)をつくり、そこに6住戸からなるマイナーストラクチュア(二次構造)をはめ込む。この二次構造は「変わる部分」として、将来は変更できることを想定していた。


 晴海高層アパートの図面(パンフレット「スケルトン住宅って何」1999より)

 残念ながら、その特性を生かすことなく、地域の再開発に伴い1997年に取り壊されてしまった。その一部は、UR都市機構の八王子試験所に移築されている。近代建築を代表する貴重なもので、一見の価値がある。

 そして、大高氏が事務所独立後に手がけたのが、広島基町高層アパート(1972〜1978)と香川県にある坂出人工土地(1968〜1986)だ。これらは、建物を「変わる部分」と「変わらない部分」に分けようとする思想をよく表現していた。

 その広島基町高層アパートで、最近、嬉しい報告があった。
 基町アパートは、晴海と同じく主体構造と二次構造を分離している。2005年より狭い2つの住戸を1つに合体して広くする改修が進められているが、その際に、スケルトン・インフィル方式を採用していたことが大いに効果を発揮したというのである(広島大学・平野吉信研究室より)。もちろん、当時はスケルトン・インフィルと呼んでいないが、計画思想は同じだ。それが、30年の歳月を経て脚光を浴びたわけで、本当に嬉しいことだ。

実現した大高氏の夢−坂出人工土地

 大高氏の夢は、さらに香川県坂出市に現存する人工土地の実現につながる。
 建設省は、1962年〜63年、日本建築学会に委託して人工土地の調査研究を行った。丹下健三の片腕であった都市プランナー・浅田孝を委員長とし、もちろん大高正人氏や槙文彦氏らの建築家も参加している。この委員会の仕掛け人は、建設省の北畠照躬氏のようだ。

 北畠氏は、事務官僚に比べて技術官僚(技官)の地位が低かった建設省住宅局において、その地位向上に努力された方である。私も建築研究所時代に技官であったから大恩人にあたる。
 実は、最近知ったのだが、北畠氏は、東大建築学科で大高氏の同級生だ。両者に密接な関係があったと想像しても間違いではないだろう。同級会でのこと。「これからは人工土地の時代だ。建設省も音頭をとって..」「よっしゃ、分かった」(私の勝手な想像です)。それが、人工土地委員会の設立につながり、そして実現に至ることになったと想像すると楽しい。

 委員長の浅田氏が香川県に関わっていたことが幸運となり、坂出市のスラム改良事業に人工土地を採用することを提案。大高氏を設計者として紹介したことで実現に向けて動きだした。

 注目すべきは、所有権のあり方に踏み込んだことだ。人工土地という以上、単なる建築ではない。土地に近い所有形態をもたなければならない。そこで、人工地盤は、坂出市が地権者より「屋上権」を購入して建設するという画期的な仕組みを採用している。いったい誰のアイディアだろうか。

 第1期の完成が1968年。最後の第4期が完成したのが1986年で、実に20年越しの大事業であった。現在も坂出市の中心地にあるが、老朽化という課題を抱えながらも、人工土地構想のシンボルとして存在している。

 
 坂出人工土地の様子(2001年頃)

人工土地の不動産登記はどうなっている?

 私は、坂出人工土地を3回訪れた。人工地盤の下には、店舗や駐車場がある。人工地盤の上に出ると、公営住宅があたかも地上にあるように建っていた。感慨深い光景であった(写真)。

 2回目に坂出人工土地を訪れたのは2001年。不動産登記簿の調査のためだ。人工土地は、登記簿にどのように記載されているのだろうか。それが関心事であった。
 不動産登記がなされないと、銀行ローンの担保にならないし売買も難しいからである。

 結論をいえば、不思議な登記簿であった。もちろん、人工地盤を示す登記はない。その下の店舗は、人工地盤とは切り離された独立した家屋として登記されていた。
 そして、驚くことに、人工地盤の上にある公営住宅も、空中にある戸建住宅のように登記されていた(詳細は、小林・藤本他「立地基盤建築物を成立させる法制度の研究」国総研研究報告2003)。

 また、屋上権についても、地権者と坂出市の覚書(一部は口約束らしい)があるだけで、登記はなかった。もちろん、登記の方法がなかったわけではない。区分地上権(空中のある範囲を所有する権利)と呼ばれる権利を、坂出市が土地に設定することはできた。
 しかし、土地に権利がつくことは嫌がられる。相互の信頼関係に基づくとして、登記は避けたのだろう。

途中で区分所有建物として整理したが

 しかし、困ったことが起きた。1991年以降に順次不動産登記簿が電子化されることになり、その際に、権利を整理する必要に迫られたのである。そこで、マンションと同じ区分所有建物とすることになった(最近の調査では、区分所有建物としての登記の変更は、電子化が契機ではなく、それ以前の1976年頃に行われたことが判明した)。これにより、人工地盤は、区分所有建物の「共用部分」とされたのである。

 もちろん、マンションの共用部分となっても、全体の管理組合はなく、共用部分の管理費や修繕費もない。老朽化とともに人工地盤の維持管理は宙に浮いてしまうことになった。
 私が訪問した時は、かなり荒廃が進んでいた。建物の維持管理、売買、担保などの基本には所有権と登記がある。それが整理されないと、建築物は価値を維持できない。そのことの大切さに思い至るのである。

 しかし、歴史に残る名プロジェクトだ。このまま荒廃するのは惜しい。現在、再生に向けた動きがあるそうで嬉しい情報だ。

人工土地の物語から学ぶ

 「人工土地」という言葉には魔力がある。1950年代は「スケルトン住宅」(コラム連載3)のイメージで語られていたが、しだいに、坂出人工土地に代表される「人工地盤」のイメージが強まっていく。
 その背景には、高度経済成長の下で、建築家が都市構想をさかんに発表したことが影響しているのだろう。しかし、私は「言葉の魔力」も大きいと感じている。

 スケルトン住宅を人工土地と呼んだ瞬間、それは土地に近づけるべく努力するものとなる。しかし、結局、土地所有制度という大きな壁にぶちあたった。私が建設省建築研究所に就職してすぐに参加した「人工大地型集合住宅」の開発はその残り火だ。
 その土地所有権の壁を乗り越えられないまま、人工土地構想は行き詰まるのである(コラム連載6)。

 私にとっては、このような経験に学び、つくばマンションの開発から今日のSI住宅につながっているのである。(次回に続く)